さえらの温泉ブログ
温泉地の印象など、言いたい放題コメントしています。
一生に一回、京都に住みたくて
疾風怒濤の春が過ぎた。納期に間に合わせなくてはならないレポートの山をさばき、会社の仕事をなんとか仕舞って、3月には京都に引っ越した。本当に慌ただしかった。

同志社大学に勤務を始めて、やっと一か月。GWというのは、こうやって、新しい環境に慣れていない人にとっては、自分に還ることのできる、貴重な時間なのだと思う。

私も、なんだか、京都ではまだ疲れがとれない気がする。初めての単身赴任、初めての大学でのフルタイム勤務、初めての人間関係、初めての京都・・・・たくさんの「初めて」の中で、緊張することが本当に多かったのだ。

そして、京都には、温泉がない!ないことはないが、市内にはとても少ない。横浜の家の、低反発マットレスに慣れた身には、新しいベッドのマットレスではどうもしっくりこない。緊張が続いているせいか、あまり熟睡した気がしないのだ。まだまだ、今後のことが不安で仕方ないせいもあるだろう。

だが、それにしても、京都の春は美しい。御所も、勝持寺(花の寺)も、上賀茂神社も、鞍馬寺も、美しかった。それ以外にも、本当に、路地のそこここに、ため息の出るような、見事なしだれ桜が咲いているのに出会う。染井吉野だけでなく、名前も知らない、たくさんの種類の桜が咲いている。

歩いて行ける範囲にも、お、織田信長の墓だ、となりは、森蘭丸三兄弟だ!なんていうのに出会う。歴史の上に生きていることを実感する。だいたい、同志社そのものが、相国寺の境内にあるのだし、元は薩摩屋敷である。外のしっくいの白い土壁が、赤い大学の煉瓦色の建物に、とてもなじんでいる。これも、京都なのだ。ここに、坂本竜馬がケガをして運び込まれたんだなあ、なんて考えながら、構内を歩く。

いろんな偶然と幸運が重なって、京都に住むことになった。本当に有り難いことだと思う。一生に、一回住んでみたいのは?と聞かれて、京都、金沢が筆頭だった私にとって、本当に幸せなことである。ま、温泉研究家としては、老後は、函館と別府に二つの小さなアパートを借りて行き来する、温泉三昧の生活もいいと思っているのだが。まずは、この5年間を、がんばって生きてみようと思う。生きるのも、人間関係を作るのも、やっぱりへたくそなのに変わりはないが、この桜を見るためだけにここまで来たのだ、と自分を慰めることにしよう。

花の名前を知っていることが、紳士の証だという。私も、せめて、桜の名前を、少しは覚えて帰りたい。
[ TB*0 | CO*1 ] page top
暮れていく年に
いろんなことがあった年だった。あまりにも、いろんなことがありすぎて、思い出せないことさえある。

今年は、あまりにも喪中が多く、自分で賀状を出すのをやめた。替わりに「寒中見舞い」にする。おめでとう、より、お見舞い申し上げます、のほうがしっくりくる人も多いからだ。生きているのか、死んでいるのか、わからない友人もいる。家業が傾きかけている人も、退職金をはたいた自宅が消えた人も。みんな、それぞれ、「お見舞い」だ。

60枚以上ある喪中葉書の中で、今年一番悲しかったのは、友人の息子さんのだった。24歳である。地震でも津波でもない。彼は、デュシェンヌ型の筋ジストロフィーだった。でも、普通校へ進学し、大学へも行き、新しい人生を切り開こうとしていた。それは24歳で終わってしまった。デュシェンヌは、かつては16歳ごろまでしか生きられなかったのだから、長生きしたというべきかもしれないとは思う。だが、南九州病院の友人たちのように、30代の後半まで生きる人だっている。そう思うと、やはり早過ぎる気がしてならない。

一人息子を失った両親の悲嘆は限りないだろう。お母さんは、私の前職の同期だった。本当にきれいな人で、優秀で、ひとにやさしかった。プロポーズされたときのことを、とても幸せそうに語っていたのが、昨日のことのように思い出される。幸せの絶頂で生まれた息子が、神経難病になったのだ。彼女は仕事を辞めた。

どんなに医学が進んでも、治らない病気は存在する。いつかはとあきらめていても、やはり目の前の子どもを失うということに、親は悲嘆にくれる。突然ならば、なおさらだろう。でも、それも、人間が向き合わねばならぬことの一つなのだと思うしかない。いつかは、自分だってこの世界から消えていくのだから。

いろんな思いの中に、今年も暮れていく。

中学生のときに作った俳句を、私はまだ覚えている。

「走り出でて 晦日の夕陽に 別れけり」

元旦の朝日を拝むだけではなく、一年間お世話になった夕陽にも、別れを告げる。
そんな、中学生だったのだ。

あと、ふつか。静かで平和な、年の暮れになりますように。
[ TB*0 | CO*1 ] page top
インクルーシブデザイン10年の歩み展
昨日は、恵比寿で、「共感するイノベーション インクルーシブデザイン10年の歩み展」に行ってきた。ロンドンに住んでいたジュリア・カシムが、ついに日本に帰ってきたというので、久しぶりに話を聞きたくなったのだ。
相変わらず、世界を舞台に、「社会を変えるデザイナー」として動きまわっているらしい。これから日本での活動が楽しみだ。

パネルのメンバーもなかなか豪華だった。なんだか、これまでのUDの10年を振り返ることにもつながった。デザイナーの世界では、デザインという行為そのもので、社会を変えていけるという確信が、少しずつ広がってきているのだろう。とても良いことだと思う。しかし、企業の中では、やはりそれを収益に結びつけていかなければ、残念ながら評価はされない。シニアビジネスだって同じことだ。

いかに美しく使いやすいデザインの中に、ニーズの大きな人々に対する機能を「埋め込める」か。それが、本当の「インクルーシブデザイン」かもしれない。もちろん、デザインの中に多様な人を巻き込んでいくという、民主的なプロセスを、そう呼ぶのだけど。

UDが、次第に一般的になってきて、バリアフリーと混同されるようになり、「車いすユーザーのスロープのことでしょ」といったような、狭い解釈でしか語られなくなったとしたら、これも残念なことだ。

まだまだやるべきことは山積しているのだから、名称にはこだわらない。日本社会がいまだに多様性に富むとは言えない以上、ユニバーサルも、インクルーシブも、みんな大事だ。もちろんバリアフリーだって。

何人かのなつかしい人々にも会えた。短い時間だったけど、濃いものだった。ま、パネルの字が小さすぎて、私には見えなかったところが残念だったが!
[ TB*0 | CO*1 ] page top
DATE: 2011/10/03(月)   CATEGORY: 旅行
虹の松原で松葉掻きを手伝う
唐津へ行った。虹の松原で、松原保全をしているNPOのみなさんに教わって、初めて「松葉掻き」を手伝った。

かつて、松葉は家庭の燃料として、高く取引されていた。唐津には、松葉に関する物語もたくさん残っている。しかし、戦後、ガスが普及するに従い、松葉は燃料としての価値を失い、松原には改修されない松葉が積もっていった。それは富栄養につながり、腐葉土化した土に、広葉樹が入り込んで植生が変わり、松林の風景を変えようとしている。

NPOのKANNE(かんね)は、それをなんとか食い止めようとして活動している。松原に人を呼び、楽しく松葉を集め、松葉タワーを作るコンテストを行ったり、ツアーコースを開発したりしている。メインで動いているのは、地元の若く美しく、優秀な女性たちだ。それを、地元のおじさんたちが支援している。いいなあ、なんだか、「わかもの、ばかもの」を地で行っている。

私もほんの少しだけ、松葉掻きを手伝った。松葉は、今、たばこ農家が肥料にするそうで、枝や松ぼっくりをより分けて、松葉だけを集め、大きな袋に入れる。かき集めるのも、袋に入れるのも、少し動くだけで結構、身体を使う。ダイエットにも良さそうだな。

枝や松ぼっくりと、松葉をより分ける道具は作れないだろうか?いや、堆肥だけじゃなく、松葉をペレットや、バイオマスの材料にとして使えないだろうか?松葉掻きをしながら、いろんなことを考えた。

松葉掻き体験の後は、虹の松原ホテルの一室で、これからの松原のあるべき姿を話し合う。これは、3回連続のワークショップなのだ。高校生がたくさん。普通の主婦や会社員。高齢者大学の卒業生。さまざまな立場や年代の人が、松原の過去・現在・未来について話し合う。ものすごくいい雰囲気だ。惜しむらくは、この議論の場に、自治体の人が一人も参加していないということだ。もったいないなあ。

日本の松林は、世界にも類を見ない、自然と人間のコラボレーションだ。ときのゆらめきが、木漏れ日になって降り注ぐ。わずかに松原を歩いただけで、深い森林浴をした心地よさだ。

呼子にイカを食べに行った人は、帰りに松原に行って欲しい。そこで松葉掻きのボランティアをやってほしい。福島まで除染には行けなくても、九州人は、唐津で松葉掻きができるじゃないか。おくんちの後で、松葉掻きをしてほしい。多くの観光客が、楽しんで松葉掻きができるようになったら、日本一、いや、世界一のこの松原は、白砂青松を保てるのだから。環境に貢献できるのはもちろん、とにかく楽しいのだから!
[ TB*0 | CO*2 ] page top
仙台インターフェース学会無事に終了
先週は忙しかった。月曜は都内でいくつもの委員会をかけもちし、東大への行き帰りはタクシー、霞が関の委員会も10分前に退席して羽田へ急ぎ、最終の小松行きフライトに乗って、福井駅に夜の10時すぎに到着した。さすがに疲れきってしまい、夕食もとらずに寝てしまった。

翌日が、福井の情報モラルセミナー。相変わらずハイパー研のみなさんの手際がよく、関係者の人柄や地元の方々の暖かさに心がなごむ。だが、ゆっくりもしていられず、翌朝、仙台へ飛ぶ。

仙台空港は、7月末に来たときよりも、片付いていてきれいになっていた。少しずつ復旧が進んでいるのを実感する。市内もそうだ。前と同じホテルなのに、スタッフの表情は明るくなっているし、町の中のあかりも以前より増えた。女の子のファッションも、ずっとポップになっている。良かった。

ヒューマンインターフェース学会は盛況だった。東北大学で開催する予定が、被災がひどかったために難しく、結局、前回JSTで行った国際センターでの開催となったのだ。エレベーターがわかりにくいところにあるため、1階と3階に分かれてのセッションをとるのは少し難儀だったが、内容は濃く、面白い発表が多かった。今回は前後のスケジュールがタイト過ぎたので、私自身は発表もせず、依頼された座長もお断りせざるを得なかった。次回はなんとかしたいものだ。

この学会は、2000年に特別講演を引き受けたのがきっかけで、毎年参加するようになった。ユーザーインターフェースの研究者、ユーザビリティやユニバーサルデザインの専門家が多数集まる機会である。いつの間にか、私も古株になってしまった。なつかしい顔に会えるし、新しいことにチャレンジする若い人に会えるのも嬉しい。

大会長の北村正晴先生にもお会いできた。昨年の原子力学会の蔵王合宿以来だ。あのとき、東北が、そして福島がこうなろうとは、夢にも思っていなかった。彼の心労を考えると言葉も出ない。ご家庭の事情もありながら、大会開催にこぎつけたご苦労を思うと泣けてきそうだった。学会のキャッチコピー、「ポジティブ!Sendai」というのは、昨年のうちにつけたものなんだけどね、と、あの穏やかな眼差しで語られていた。万感の思いがあっただろう。

運営を担ってきた高橋信先生が、災害とネットワークというセッションで被災の状況を離された。備えがあったはずの研究室がほぼ完全に壊れたこと。本棚に直撃されたMacの無残な姿。ご家族が虫のしらせか、午後の行き先を変更したために全員助かったこと。生死を分けた運命の不思議さを思う。おそらく、東北の全員が、「その日の物語」を持っているのだ。

特別講演は脳科学の川島隆太先生と、足こぎ車いすの開発者、半田康延先生だ。二人とも大変面白かったが、川島先生が最後に質問をうけるところで、「バリアフリーはいらないんです。むしろバリアがある方がいいんです」と語られたのが、私としてはちょっと残念だった。確かに脳科学やジェロンの中では、リハビリや訓練のためには少し負荷をかけるほうがいいのはわかる。しかし、だからといって、病院に階段しかなければ患者さん自体が来ることができず、連絡先に電話しかなければ聞こえない人は予約もできない。バリアフリーやユニバーサルデザインは、公共の場、家庭では「前提」として整備すべきもので、それがあってこそ、リハビリも訓練も開始できるのだが。もちろん、川島先生も、ご自分の脳トレで、頸髄損傷の人が歩きだしたり、全盲の人が見えるようになるとは考えていらっしゃらないだろう。質問への回答の流れで出た発言ではあるが、関わっている関係者の多さを思うと、ちょっとだけブルーだった。

でも、半田先生の「足こぎ車いす」に乗ってみて、またご機嫌になる。これ、おもしろいっ!!!CP(脳性まひ)の方でも、座位保持さえできれば、乗れるかもしれない。ビデオにあったように、脳卒中など、片まひならたぶん大丈夫だろう。動く側の足に少しだけ前に押し出す力があれば、動かなかったはずの足もそれに連れて動きだし、自転車のように進んでいく。手は使わないタイプなので、むしろ両手が自由に動かせる。どうしてこんなにいいものを、これまで私たちは知らなかったのだろうか?リハ工やHCRで展示していたっけ?

手漕ぎ車いすも、脳トレも、いわば「コントローラビリティ:制御感」をいかに保つかだと思う。自分の人生を、自分で決められるという感覚。加齢や障害で、不自由になった何かを、まだ制御できるかもしれないという思いが、人を動かす。明るくする。「できる」ことを、小さくてもいいから、見つけることが大事なのだ。

ポジティブになろう。不自由だからこそ、工夫が生まれる。災害時に使えるUDなものこそが、世界の、さまざまな人を救うことができるのかもしれないのだから。
[ TB*0 | CO*0 ] page top
Copyright © さえらの温泉ブログ. all rights reserved. ページの先頭へ